神戸学院大学人文学部人間文化学科2005年特別講義I編


by shohyo

<   2005年 06月 ( 48 )   > この月の画像一覧

「心」はあるのか

d0068008_18335133.jpg「『心』などあって当然だ。多くの人はそう思うだろうが、果たして本当なのだろうか?」
 本文は、いきなりこのような問題意識の投げかけから始まっている。今まで、語られてきたようで、実際には真正面から扱ったことなどない『心』というものの存在を、どのように”確信”することが出来るのか。この本では、最初から最後までそれを模索し続けている。
 まず、今まで人々はどのように『心』を論じてきたか。話はそこから始まる。最初に、筆者が大学で学んでいた『心理学』ではどうか。これは、筆者から
言わせると「心理学は『心』を研究などしていない」という結論になる。    それでは、他に『心』を扱っているのは何か?哲学がある。一言で言ってし
まえば、概ね哲学では『心』の存在に対して懐疑的である。では、宗教はどう
か?宗教にも色々あるが、ユダヤ教、キリスト教、仏教では『心』の存在を認
めない、または在るということが錯覚であるという考え方をしている。
このように、『心』はあるということが自明ではない。それでは、何故人々は『心』があると思うのであろう。これが、次の問題である。
 はじめに答えを言うと、自分が『心』を持っているから他の人も持っているはずだ、というのが多くの人の考えである。しかし、それは証明できない。判断する人間が『人間』であるという確証はどこから来るのか。『心』を持っているという確証、自分が『人間』であるという確証を、言葉にして述べることは出来ない。
 そこで、『言葉』というものが重要になってくる。「人間が『人間』を認めるときに言葉が通じるということを定義としている」からである。
ここから、筆者は最後の結論の章まで『言葉』というものについて延々と説明している。つまり、『心』を語る上で『言葉』というものが必要だと筆者が考えているということだ。キーポイントとなるのは『言語ゲーム』というもので、観察者が何か行動している人を見て、その行動のルールや意味を説明されなくても分かっていくという、無意識のうちに生活の中で繰り返している行為である。筆者は、全ての事柄がこの『言語ゲーム』という定義によって説明できるのではないかと言っている。
最終的に、筆者による答えは「『心』とは、『心』そのものとしては答えられないものなのではないか。お互いに『心』があると認め合う中で、実在しているように見えるだけである」「むしろ、心は何かという問いを生み出した社会的文脈や社会的背景を理解していくときに、別の問い(社会学など)に回収して答えるしかないのではないか」という『予想』をしている。

 読者に分かりやすく、あまり専門用語を使わずに実例を挙げて話を展開していく様は、素晴らしいと思う。心などの解明できない分野を扱う本には、得てしてあらかじめ専門的な用語を知っていて論じられることが多く、逆に実感の湧かないものが多いからである。
しかし、初めのうちの「『心』とは何か?」を考えていく過程から「『言葉』とは?」という説明に移る、そのつなぎに強引さを感じてしまう。読んでいて、「どうしていきなり『言葉』がこんなに重要だと言ってくるのだろうか」と、前文を何度も読み返さなければいけない。筆者の「言葉によって認め合う行為こそが『心』になる」という結論に持っていくためには必要なことは分かるが、急展開な論理についていけず、立ち止まってしまう。
とはいっても、『心』というものの『実態』が存在するのかどうか、という問題に真正面から考えたこの本は、尊敬に値すると思う。たとえ答えが確定的ではなく、あくまで筆者個人の『予想』の範囲で留めているにしても、今のところはこれが精一杯だろうとは思うし、一応は納得できる答えであるからだ。今後、筆者がこのことについて何か新しい解答をする日が楽しみだと思う。

文:斗季
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 18:34

ありえない日本語

d0068008_1832360.jpg若者にとっては、ごく普通の言葉であっても、年配の人々が聞くとおかしく感じる言葉は多々ある。「ありえない日本語」ではそれら、若者言葉の代表的な言葉について著者が研究し、その結果が書かれている。時代によっての言葉の変化や、なぜそのような言葉が使われだしたのかがわかりやすく書かれている、一冊である。
「ありえない」「やばい」という言葉をご存知だろうか。若者がよく使う言葉である。普段使っているし、聞いている人間にとっては、違和感のない言葉である。しかし、年配の人々は、違和感を覚えるという。「ありえない」「やばい」は元々否定の言葉である。しかし、若者は、肯定の意味でも使う。例えば、「ってかアタシ2年でありえないくらいがんばってちゃんと卒業すっから☆」、「あの曲、やばいくらい良いんだけど。」である。そのようなことを、著者は、〔なぜ、肯定の意味で否定の言葉を使うのか〕や〔年配の人々にわかるように若者の言葉の使い方の説明〕が書かれている。
ファミリーレストランなど、若い店員がホールをしている店に行って、「メニューのほうおさげしてよろしかったですか?」と言われた経験がある。これは、おかしいと思っていた。やはり、著者が、勤務している大学でアンケートをとったところ、「~してよろしかったですか?」は、4割以上もの学生が違和感を覚えると、書かれていた。よく、〔最近の若者は言葉が乱れている。〕と言われている。しかし、それにはすべて理由があることがこの本で理解できた。著者もそれが言いたかったのではないかと伺える。
著者は、若者が楽しく読めるように、流行の漫画、CDの歌詞、パソコンの掲示板、ブログから、それらの言葉を抜き出してそのまま載せている。よって、堅苦しい文字ばかりの自分の論理ばかり書いている読みにくい本ではなく、若者にわかりやすいいろんな例えが出てくるので次のページをめくるのが楽しみになる、読みやすい本になっている。自分達が使っている言葉を客観的に、見直す、良い機会になると思う。
 
文:なし
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 18:32
この本は肉や野菜、魚といった主菜・副菜といった物から、米やパンや麺類といった主食や調味料などの歴史を綴った本である。
しかし、それぞれの章の中に日本人の食に対する姿勢や人類の食に対するあり方を批判するような記述も見られ、単に「食の歴史」を綴ったものではなかった。それらの例を挙げてみると、
『現在、人間の食べものになっている動物は草食獣(牛や羊)か雑食獣(豚など)だ。つまり、人間がそのままでは食べられないものを人間に有用な蛋白質や脂質に変えてくれる、たいへんありがたい加工装置といえなくもない。人口の増加と、それに伴う食糧危機の到来が憂慮されているが、将来は豚や牛を農業や公害のない工場の中で特別の飼料で「生産」する時が来るといわれている。(中略)残酷な話だ。が、それに目をつむらなければならないだけ、人間の世界はさし迫っているのである。』
この本が初版されたのは1975年とあるから、実に30年前の事である。もしかしたら、この本文に書かれているような事が現在、実際に行われているのかもしれない。私たちは今まで、牛や豚や鶏などを何気なく食べてきたが、そのことを当たり前と思い、何の疑問も持たなかった人々が多かったのではないだろうか。私もその一人であった。動物の生命やアイデンティティを無視し、動物を殺して食べている。そのことに何の疑問も持たなくって来ている今の人間は実に罪深いと思う。かといって人類が肉食をやめることは不可能だと思う。この問題はなんとも複雑である。我々人類が肉食をやめることが出来ない以上、せめて動物たちに感謝する心を忘れてはいけないのではないだろうか。
 さて、次に私が興味を持った部分があったので紹介する。
『世界各国の料理を取り入れながらも、伝統的食物や料理を失うまいと国民は必死だ。(中略)次々と入ってくる新しい材料と料理法が、従来の方法ととけ合って、もう一度日本料理を完成にみちびくか、この多彩な混乱のまま並行線を辿るかは、実は誰にもわからない。(中略)日本人の食物のなかで、有史以前から日本にあったものは、柿、ウド、フキ、ヤマノイモ、マツタケぐらいのものだったということだ。(中略)考えてみれば、“日本料理”自身、昔、どこかから渡来した材料が別の時代に渡来した料理法で料理されたものともいえるのである。』
 これも今まで気づかなかったことである。たしかに、「すき焼き」という日本料理を考えてみても、日本にはもともと牛肉を食べる習慣はなかったが、明治になると西洋の影響で、牛肉を食べるようになった。しかし、当時の人々はステーキなどで食べることはなく、日本独自の醤油や砂糖などを使い、西洋の材料を使い、日本的な料理法で、「すき焼き」という日本料理を生み出した。しかし、日本の料理だという「すき焼き」一つにしても、その全てが有史以前からあった物ではないのである。だが、「すき焼き」は日本料理だと私は思う。つまりこの事は、日本で昔から使用されてきた調味料を使い、日本人の味覚に合った調理法で作られた料理は、全て「日本料理」といえるのではないだろうか。
 このように、この本は私が普段考えもしなかった事を考える機会を与えてくれ、今まで知らなかった知識も与えてくれた。この本に書かれている内容が、単なる食文化の歴史を伝えるだけでなく、食について考える機会を与えてくれた事に感謝したいと思う。

文:なし
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 18:30

夢と欲望のコスメ戦争

d0068008_18285253.jpg “美白”それは日本書紀に登場するほど歴史は古い。平安時代から今日まで、日本の女性の憧れなのである。和装から洋装へとファッションの変化が見られた大正時代には、美白は一時影が見え、夏には小麦肌が流行ったが、それもつかの間、秋口にはまた美白に励むというサイクルになっていたのだ。
 80年代になると、その小麦肌はシミ・シワを増やし、皮膚がんを引き起こす原因になると言われ、次はUVカットに注目した消費者は、化粧品メーカーにUVカットの化粧品の生産を急かすほど夢中になった。
 時代が移り変わるにつれ、何が美しいのか。という定義は変わっていったが、女性たちはみんなキレイになりたいという願望を持ち続けていた。それに比例し、化粧品に対するわがまま、貪欲さは計り知れないほど大きくなっていくが、化粧品メーカーは、消費者の要望に答えようと試行錯誤する。一見、華やかな世界のように見える化粧品メーカーだが、そんな消費者との戦い、入り組み絡みあった化粧品メーカー同士との戦い、販売戦略の面白さがここにある。
 金よりも高価な化粧水を使い、クリームはTVCMで話題性抜群のものを使う女性には、果たして、その効果は出ているのだろうか。それに対する、この本の答えは(『「美人」へのレッスン』・『美容の天才365日』講談社)を引用し、効き目や結果ではなく、その化粧品を使うことにより幸福な気持ちになることが一番。心理的作用も、効果的に肌に大きく働く。というような当たり障りのないように出されており、核心を突く答えはない。しかし、悪い商品は悪い、効果が見られる商品は良い、と美容ライターや美容ジャーナリストが情報を世間に流さなければ、消費者はどれが良い化粧品であるのかを試さなければ知りえないため、お金を大量に使い込みながら探し続け、ただの水のような化粧品を数万円で売りつけるメーカーが出たりと大変な状況が続くのではないのだろうか。と思うところもある。

文:重娯
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 18:28

そんな言い方ないだろう

d0068008_18253185.jpg日本語というものはとても難しい言語である。敬語、ため口、漢字にカタカナなど多くの使い方がある。間違った日本語を使っていると自分の評価を下げるばかりではなく、相手をいやな気持ちにさせてしまう。この本にはそのような日本語の使い方や話し方を様々な
例をあげてアナウンサーでもある著者が指摘している。
 まず、「言葉の生活習慣病」と題して、普段使っているような言葉が紹介されている。はじめに、「よね」という言葉。言葉の終わりに「よね」を付けるのは押し付けがましい表現である。「よね」を使っているCMや記者が多くいる。この言葉は相手の勝手な思いに同意を迫られている感じがする。世の中には皆それぞれの考え方を持っている。「~ですよね」というのは、自分の意見を押し付けて相手の無知に付け込んでいるようだと言っている。その他にも表現が大袈裟すぎるのはよくないと述べている。確かに、そこまで言わなくてもいいと思う様な表現は数多くある。しかしそれはあくまでたとえであり、人に嫌な思いをさせない程度であれば、大袈裟にすることで自分の気持ちを奮い立たす効果もあると思うのでそこまで指摘しなくてもよいと思う。
 そして、「よね」は普段私も使っているよう表現であったが、こんなに考えたことがなかった。確かに「~よね」と言われれば自分の意見が少し違っていても同意してしまいそうである。しかし、相手の無知に付け込もうと思って言っているわけではないので、その部分は考えすぎではないかと思う。
 次に、ため口のことがあげられている。お店の店員がお客と親しくなるためにため口を使う。しかしそれが相手を嫌な思いにさせていることがある。他にも、若者を中心に若者言葉が蔓延してきていることや相手の呼び方について問題が挙げられている。この相手の呼び方の問題は日本ならではの問題である。英語ではYouで済むが日本語は「あなた」「きみ」「おまえ」など多くの呼び方がある。その代わりに「お母さん」「社長さん」「運転手さん」「お嬢さん」などという言葉が使われていることも多い。その都度問題はあるが、「あなた」で済ますより暖かみを感じ、日本の文化を感じさせる。
最後に敬語のチカラという話がある。都庁職員黒田慶樹さんの敬語の使い方をよい例に、若者のマニュアル敬語を悪い例にあげている。現在の日本では親に敬語を使うことも少なり、正しい敬語を身につけることなくバイトなどでいきなり敬語を使うケースが多い。そして間違った敬語が生まれている。
この話は、私もバイトをしているので共感できる所が多くあった。幸い、私の言葉遣いは悪い例にはあてはまっていなかた。しかし正しい敬語が使えなければ、相手に嫌な思いをさせ自分の評価も下がるのでこの言葉を指摘し正していくことはとてもいいことである。この機会に若い年代のひとも正しい敬語を身につけられたらと思う。
この本では身近なものが例にされていたので理解しやすかった。しかし、ところどころでこの著者自身もどこか相手を決め付けているように感じられた。

文:なし
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 18:25
私たちは、常に光に囲まれた生活をしている。日中では太陽からの光、いわゆる自然光の中でほとんど生活し、夜間は人工的な光の中で生活をくりひろげる。人工的な光も、日中の自然光に近い、いわゆる昼光色になるような工夫がなされているので、夜間にあっても、私たちはこれらの光に照らし出された事物に色をみる。
日光のない夕方遅くから翌日の朝にかけての夜間には、あらゆる事物から色が失われ、私たちには明暗のみが感知されるのみとなる。
 この書籍は、自然の光である太陽を主題として星や夕日などの様々な色の変化、また虹やヒトの目などを取り上げ、光と色の見え方などの関係について述べている。さらに、ニュートンの光の粒子説やハイゲンスの光の波動説などを取り上げ、光についてのより詳しい説明を紹介している。
「虹の色は全部で何色か」とたずねられたら、大部分の人が「七色」と答えるだろう。虹が七色であることに私たちは何の疑問ももたないが、アメリカやイギリスにある虹に関する本は、六種類の色しか記載されていないという。これは日本の風土における湿度の高さに原因がある、というのが著者の考えである。水蒸気が波長の短い青い側の光を効率よく分散し、自然の景観の背景に青い色をくりひろげるようにしてしまうという。このことが、アメリカやイギリスの人が感知しない藍色を鋭敏に捉えるため、私たちは虹を七色と見ているのであろう、と。
実に興味深い話である。その土地の風土によって、虹の色が一色減ってしまうのである。普段何気なく感じている光や風土の関係で、そのような面白い現象が起こるのである。考えてみれば、虹自体が不思議な存在ではないだろうか。降雨の後ごく稀にしか姿を現さない、空に架かる鮮やかな大きな橋。自然の光は、時に奇麗な産物を生み出すのである。
 他にも、白く見える昼間の月や太陽の色の違いなど、私たちが身近に感じることのできる事物や事象を取り上げている為、親しみやすくとても興味を惹く。内容も実に感嘆することが多い。しかし、専門的な知識や言葉も数多く登場するため、一度で理解するのに苦しむことが少なくない。
文:ショコラ
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 18:23
d0068008_18203831.jpgこの本は、普段われわれが話をしているとき、相手の知的レベルが分かるという。だから、話し方ひとつで評価されてしまうので、その話し方をかえていこうというものである。頭の悪い話し方では人望がなくなり、さびしい生活を送るようになるかもしれない。では、どのようにしたら、話し方が変わるのだろうか。それは簡単である。頭の悪い話し方が分かれば、知的な話し方が身に付くというものである。
自分が頭の悪い話し方をしていないかを振り返ることのできる契機を与えてくれる一冊である。そして、周りに頭の悪い話し方をしている人への対策や、自覚するためのアドバイスで手助けもしてくれる。
視野が狭い人は、知的ではない。テロが起きても、関心を持たず、関心があるのはタレントの話題やファッションばかりである。仮に、関心を持ったとしても、その背景にある国際政治について考えない。このような人を「視野が狭い」といえる。『芸能についても見識をもつのは、決して愚かなことではない。日常生活を一生懸命に送ることも素晴らしいことだ。だが、日常の向こうには天下国家があること、日常生活を支えているのが、政治や経済であることを認識しておくことが必要だ』。しかし、このような人からは直接被害をうけない。うんざりはさせられるであろう。対策は、視野の狭さが仕事に差し支えるときには、きちんと言うべきである。それ以外では、好き勝手に話させればよい。自覚するには、自分の視野の狭さを認識することである。認識できれば、視野の狭さから脱出できる。その方法は、政治や経済を難しいものと考えず、日常に関わる、リストラなどから理解していけば、視野は広がる。
視野が狭いと、人生で困ることが多い。例えば、就職活動の面接や小論文などで、露呈してしまうだろう。自分がどうかわかる手助けをしてくれるので、助かるであろうし、周りに狭い人がいるなら、その人のために教えてあげるべきだ。
自分が悪い話し方に自分がならないためにも、頭が悪い人の話し方を学びとる。という、「反面教師」を利用して、頭の言い話し方を身につけるようにさせてくれる。この本の内容を読むと笑えることが多いが、一方で自分も頭の悪い話し方をしているところがあるかもしれないので、自分を変えてくれるだろう。いつか、恥をかく前に読むべきだ。

文:フランク・ランパード
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 18:21

読書力

d0068008_17174078.jpg読書は、相撲で言えば“四股”である。相撲を取るための素地をつくる最良の方法が四股である。同じように、思考活動における素地をつくるためには読書が最良なのだ。
 「しかし、最近の大学生の多くには読書習慣がなく、読書習慣があったとしてもただの『読書好き』であって、読書力があるといえる人はほとんどいない」と著者は言っている。
 では、読書力とは一体何か?というと、「読書力の目安として、“文庫百冊、新書五十冊”を読んだ」ことを基準にしている。しかし、ただ単に本を百五十冊読めば良いというわけではなく、その読む本へも「ここでいう文庫本とは、推理小説や完全な娯楽本を除いたものである。」という一定の基準を著者は設けている。小学生でも読めるような、楽しいだけの本ではなく、ある程度の「精神の緊張を伴う読書」を重ねることによって、読書力はつくのである。
 ただ読書力をつけたからといってメリットがなければ、なかなか読書力をつけようとは思わないだろう。では、メリットは何かというと、まず「自分の世界観や価値観を形成し、自分自身の世界をつくる最良の方法」であるということ。本を読むことによって、たくさんの知識を身につけることもできる。幅広い読書の経験があれば、それだけ幅広い分野の知識を身につけられる。他にも、読書で様々な人の追体験することによって、自分に降りかかった不幸な出来事や、辛い出来事にどう対処すればいいのかを、ある程度しっておくことが可能になる。そして読書は一人で行う。それによって自分と向き合うこともでき、自己を培うことにつながる。
 次に、「コミュニケーション力をつけることができる」ということ。会話の要点はどこにあるのか、その要点を自分の角度でどう切り返すかを学ぶことができる。会話とは目に見えないので、その中から話の要点を見つけるのは難しい。しかし、本は会話や話を目で見ることできるのでそこから要点を見つけやすいので、読書は要約力をつける練習に最適である。また、本で出てきた文を引用することによって、会話表現が豊かになる。
 そのほかにも、本の要点を的確につかむ方法や、読んだ本について話す「読書会」を上手に行うコツなど、本を読むだけでなく本を読むことを楽しむ方法を知ることができ「本を読みたい。本を読もう。」という気を起こさせてくれる。
 どのような本を読めばいいのかを、著者の視点である程度軽いものから内容の難しいものまで、広いジャンルで紹介してあるのもうれしい。
 本をよく読む人が、さらに自分の読書力を上げる方法を知るために読むのも良いし、私は本を読む習慣のない人が、本を読む習慣をつける第一歩として是非読んで欲しい一冊である。

文:みなつき
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 17:20
d0068008_1716307.jpg韓国と日本は距離からするととても近い国である。しかし文化や言語は全く違う。
著者の渡辺吉鎔は1944年ソウル市に生まれ、1964年に梨花女子大学1年修了後、慶應義塾大学文学部に留学・卒業後、カリフォルニア大学大学院で修士課程を修了の後、慶應義塾大学文学部教授に着任、以来日本で現在まで大学教授、NHKのハングル講座の講師など、様々に活躍している。
韓国で生まれ育ち、日本の大学で学び、以降日本に住み大学やメディアなどで韓国と日本の交流や文化の紹介をしている。
この本は、韓国語というフィルターを通して見えてくる、新しい韓国の姿、多様化する人々の価値観や韓国社会の方向性が書かれている。
全部で六つの章からなり、第一章は日本と韓国の文化の類似点と相違点を、言葉の類似や違いで紹介している。色の名前や曜日などでわかりやすく解説され、本の内容に入り込みやすくなっている。
第二章以降は変わってゆく現代の韓国社会を言葉の面から紹介している。
しかし二章から五章にかけて読み進めると、現在の韓国社会だけでなく韓国語がどのように社会と変化し、現在の韓国を構成していったかを読み解く事が出来る。
経済の成長、女性の職場進出、コンピューターの普及による外来語の増加、それらにより儒教の影響を受けて成り立っていた社会がどのように混乱し、そして変化して今に到るのかをハングルと一緒に学べるのである。
最後に、ハングルは他の語学とは比較にならないほど短期間で高水準に到達する事が出来る、と著者は述べる。だがしかし、言語を覚えるだけではその国の文化、歴史的背景は理解する事が出来ない、「文化に対する感性はテレビのようにわかりやすいものではなく、簡単に身に付く物ではない。」と述べる。
言語を習得するだけでなく、その国の文化、社会を理解して初めて言語も理解を深められるのである。その国の言語は、その国の文化、社会の一部である、と言う事が非常にわかりやすく書き出されていて、非常に読んで理解しやすく、韓国言語、文化に興味を惹かれる内容となっている。

文:黒鉛
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 17:16

これは王国のかぎ

まず始めに、この物語はどこにでもいるような15歳の失恋をしてしまった少女の物語である。
ただ普通と違っているのはこの少女がアラビアンナイトの世界に入り込んでそこで冒険を繰り広げることだ。
少女の名前は上田ひろみ。ひろみは失恋した日の夜自室で眠ったはずだったが、目が覚めたらそこはアラビアンナイトの世界。
そして目の前には青年ハールーンが立っていた。
不思議な力を持つことになったひろみは青年ハールーンと一緒に都へと向かい、王家の争いへと巻き込まれていく――――
一見普通のありきたりな物語に思えるかもしれないが、読んでみると全くそんなことを感じさせない面白さである。
「あたしはあたしでいることを、やめたい」
これは物語の前半での主人公ひろみの心情である。彼女は親友のリコに好きだった相手を取られ、自己嫌悪に陥ってしまう。そして自分でいることをやめたいと思い、その願いはアラビアンナイトの世界へ行くことで叶えられた。その後彼女は自分の名前を名乗らず、アラビアンナイトの世界ではジャニという名前で呼ばれることになる。これは彼女が現実の世界から逃避したことを意味しているのであろう。そして名前を変えて、現実の世界とは全く違ったことを体験していくうちに主人公の心は次第に変化していく。
「もう大丈夫だ、とあたしは思った。あたしはもどってきた。」
これはアラビアンナイトの冒険から帰還した主人公の心情である。異世界で体験した出来事達が彼女の心境を変えていったのだろう。そしてその時の長さが失恋の傷を癒したことは言うまでもない。そうして彼女の傷が癒えた所でこの物語は終わりを告げる。
読み終えた感想としては、まさに壮大な冒険を感じ取ることが出来たということだった。
主人公がごく普通の少女だったことで身近に感じることが出来、読んでいる自分も物語へと入り込むことが出来た。また入り込むことが出来た他の理由としてはこの物語が主人公の一人称で進んでいったからだろう。一人称の物語は良い悪いが分かれるが、この物語は恐らく前者だろう。そして何よりもアラビアンナイトの世界で始めに出会う青年ハールーンが格好いい。物語の中で彼はひろみに「あんたは俺の幸福だろ?」と言うのだが、それが何とも言えないほど胸に響く。描写でもハールーンは格好いい場面が多く、彼自身の設定もとても魅力的な要素となっている。
しかし彼だけではなく主人公ひろみもいい味をだしている。
冒頭の暗い心情とは違い最後の場面ではひろみの心情はまさに清々しい一言である。
「あたしが帰還したからだ。えっへん。」という最後の部分で彼女の心の変化は十分に現れている。そしてその言葉を最後の最後で持って来る作者のセンスは素晴らしい。
最後の最後まで読者の心を掴んで話さない物語というのはまさにこういう物のことを言うのだと思わせる内容である。
最後になったが、この物語はNHKのラジオ番組「青春アドベンチャー」でドラマ放送されたこともある。そのラジオ放送を聴いていた人ならばこの物語はとても印象に残っているだろうと思う。
是非一度手にとって貰いたい本である。

文:メロ
[PR]
by shohyo | 2005-06-29 17:15