神戸学院大学人文学部人間文化学科2005年特別講義I編


by shohyo

ケータイを持ったサル

d0068008_1561071.jpg “中年のおじさん”というサル学者の著者が、日頃から目にする、十代「若者」の行動に対して疑問を抱く。電車内での化粧、地べたに座る、「べた靴」(靴のかかとを踏みつぶして歩く)現象、ケータイ‥等の行為は「異人種の習俗・行動」であり、いわば、「珍種のサル」として捉え、サル学の観点から分析している。
 第一章から第六章に分けて、「現代日本人は年を追って、人間らしさを捨てサル化しつつある」ということを分析しているのである。
 第一章では、家族について取り上げている。家族で暮らすということは、生活世界を「家のなか」と「家の外」に二分することである。「家のなか」とは「情緒的な結びつきを互いに求める私的な領域」で、対照的に「家の外」は「ひとりひとりが社会のなかの一個人として交渉を持つ公的な領域」と定義している。若者の行為(電車内での化粧、地べた座り‥等)は「家の外」へ出ることの拒否、つまり公共空間に出ることの拒否と考えている。
 若者は生活空間を曖昧化している。これは母親とのスキンシップを求める甘えであり、サルと類似していることを指摘している。外(公共の場)でも「家のなか」感覚であるから、気恥ずかしさを感じないという考えに至ったこの経緯には納得させられるものがある。
 第二章では第一章で挙げた「家のなか主義」を助長させた要因を述べている。母親が子どもに一方的に濃厚な情熱をふりそそぐ、母子密着型子育ての激化である。
 第三章、四章では論点を再び「若者」に戻して、コミュニケーションを考えている。「ケータイ文化はなぜサル的と言えるのか」、この疑問について著者はこう分析している。「ニホンザルは仲間からはぐれるのを防ぐために声を出し、仲間と一体であるという安心感を得る。この音声にはメッセージが含まれていない。これは若者があえて伝える価値のない情報を交信し、誰かとつながっていないと落ち着かなくなる点と同じである」としている。
確かに我々は、携帯電話を持つことによって、常に誰かと連絡が取り合える。携帯電話を忘れて、不安になった経験は誰でもあると思う。所持していなかった以前では、考えられなかった感覚である。ある種の拘束をされているようである。
 第五章、六章では現代の子どもの理解に苦しむ大人たちに「現在の状況は過去一世紀にわたって日本人が作ってきた家族生活のあり方の必然的な帰結」であることを訴えている。
 実は著者は渋谷を極力避けていたらしい。若者の世界の奇妙さに初めは不快感を抱いていたからだ。ところがそんな著者でさえ、不思議にもその世界に魅了され、自ら、若者が集まる場所へ赴くようになったことが面白い。若者を嫌っているようで、実は研究対象として楽しんでいるのである。
 若者批判をしているように一見感じるかもしれないが、決して一方的ではなく、著者側の世代の育て方も問題にし、現代の我々に「人間らしく」行動していくことを求めているのである。
                          
文:竹の子
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by shohyo | 2005-07-03 01:56